「集中」してみたら「豊か」がやってきた

あるとき僕は、生きている事に集中できていないってことに気がついた。

 

子供の頃は毎日のごはんが楽しみだったり、朝までドラクエやったり、日が暮れるまでボールを蹴って翼君(キャプテン翼)のドライブシュートを練習したり、プラモデルのことばかり考えてたりと夢中になっていた事があった。特に理由も無く。

ところが大人たちは、その時まったく興味の無い「勉強」に対して「集中しなさい」という。

やりたいと思っていない事に気持ちを向ける事。これがいつの間にか僕の「集中」という物となって、あまり好きじゃないものになった。

 

でも今回のお話の「集中」は、長時間なにかを持続させるという事ではなく

一瞬一瞬の集中についてなのです。

 

子供の頃はなんでもはじめてで、興味がある事がいっぱいあった。

でも大人になっていくと、それがあたりまえになって感動しなくなっていく。

そして、毎日じゃないものに刺激を求めるようになっていく。

それともうひとつ。

子供の頃は不安が無かった。無かったわけじゃないけど、ある程度ほっといてもなんとかなった。だから、今この瞬間を生きている。

でも、大人になるとそういうわけにはいかない。常に何か未来の事を考えて動いてる。
未来の予測しながら生きないと誰かに迷惑をかけてしまうかもしれない。

面倒なことが起こるかもしれない。

予測して、災いや煩わしさを回避してスマートに生きる。

だからわりといつもちょっとだけ未来の事を考えてる。

「今」に集中していない分「今」を全力で楽しんでいない、夢中になっていなかったりする。

そう。僕たちは大人になって未来の心配に埋もれて

 

「今」を置き去りにしていた。

 

「今」への「集中」をそぐひとつの原因が「未来の心配事」なのだから

とりあえず心配するのを一時的にやめてみる。

そして、今に集中するという事をやってみる事にした。

対象はなんでもいい。

まずは、家の側にあったある牛丼屋。

ここでは、しょっちゅう空腹を満たすために足を運ぶのだが、時間が無いときにパパッと食べたいときや、作るのが面倒なときに行っていた。

しかし今回は集中して食べてみる事にした。

牛丼を口に運んで目を閉じて、感覚を味覚に集中させていく。

そうすると、高校生の時にはじめて食べて感動したあの感覚を思い出した。

うまい!

いつも、流れ作業のように雑に食べて、時にはおしゃべりに夢中になりながら食べたりしてごめんなさい。

 

つぎにゲームをやってみた。

大人になってから全然やらなくなったゲーム。

ゲームやってる時間がもったいないと感じるようになっていたし、他にやる事、やらなきゃ行けない事が山祇でそれどころではないと思っていた。

でも「今」への集中をしてみようと思っていたとき、たまたま大学の後輩に勧められたある対戦もののゲーム。

そう。別に立派な事じゃなくてもいい!とにかく「未来の心配事」をやめて集中してみる事をやってみようと思っていたので、すぐにゲーム機を買いに行って1ヶ月くらい遊びまくってみた。

すると、子供の頃より楽しかった。

子供の頃だって、宿題とかレッスンとかやらなきゃ行けない事がわりとあって、ゲームをやる事に後ろめたさを感じていたという事がわかった。

 

人に会う時に「未来の心配事」が横槍をいれないために携帯の電源を切ってみた。

美味しいものを一緒に集中して共有したり、話をどう返すかを予測したり考えたりするのを意識的にやめて集中して話を聞いたりしてみた。

そしたら人と会うのが今までの何倍も楽しくなった。

 

今は「便利」という物に囲まれて一見豊かな世の中に見える。

ところが気がつけば身の回りの世界はもの凄いスピードで通り過ぎるようになって、豊かさが見えなくなっている気がする。

でも、僕がこの実験で感じたのは身体ひとつで「集中」することでこのスピードから一時はなれることでみつかる目の前の「豊かさ」だった。

 

いろんな事が便利になって、大人になっていくと生きる事の大半がお決まりの作業のようになって、気がつかないうちに感動する事が無くなっていく。そして刺激を求めて非日常を求める。

だけど、日常をスルーしないで時々「集中」してみると、いろんな事を発見できることがわかったので、ときどき「集中タイム」をもうけて今がどれだけ「豊か」かを体感するようになりました。

 

 

今日もヒビアトリエに来ていただいてありがとうございます!

     

そういえば「いまを生きる」という映画が好きでした。

明日借りにいこっと。

 

 

 

 

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コメント: 1
  • #1

    ふる (木曜日, 28 9月 2017 09:06)

    未来への心配事を意識的に忘れるっていい表現ですね。
    未来への心配をして、回避してしまった結果、何も起こらず退屈になるってこともあると思います。
    人間の脳は刺激を受けることで成長し、その活動域を増やしていくというのを何かの本で読んだことがありますが、心配事を回避するということは刺激を失うことにもつながるのではないかと思いました。
    楽しむ時は楽しむことに集中することで、脳の中の受容体も最大限に広がるのでしょうね。

    ちなみに未来への心配事を増やしているのは、「便利」の中に含まれるものではあるけど、「情報」だと思います。ある程度までの情報は刺激となるものなのだろうけど、一定量を超えた時、心配事の種になる負荷に変わるんだなと感じています。しかも情報がある中での生活になれてしまうと、情報がないというだけで危険なもの、不安なものと判断してしまうんだなと。知らないものを知る、という人が発展する上で最も大切なものである好奇心を殺すことが情報によって起こっていると思うと結構怖い話ですね。

    未来のことは分からないんだし、未来なんて無数にあるものなんだから、今をしっかり生きればいいのにね。