僕らはなぜ「作る」のか?

「なんで作るんですか?」

ぼくはアーティストでありデザイナーでもあり美大出身のため、このような質問が飛び込んでくる。きっとぼくの身の回りの大学の同級生や先輩後輩もこのような質問をされて来ただろう。

そしてこの質問に対してぼくは大学の時から同じ答えをかえしている。

それは

 

「人間だから」

 

そう。ぼくは人間だから作り続けている。

何言ってるの?私も人間だけど何も作っていないよ!という声が聞こえて来ます。

しかし、これ以外の答えがみつからない。

もっと言ったら「作りたいから」なのだけど、これではちょっと不親切すぎるので「人間だから」ということにしている。

なぜか?

答えは簡単で、お猿と人間の境目って道具を使う道具を作るようになった時と理科の授業で聞いたことは誰でもあると思うのです。

ようするに、「作る」ようになった時から「人間」になった。

ということです。

鳥が空を飛ぶことを生きのびる術とした時から「鳥」になったように

キリンが高いところの葉っぱを食べることを生きる術とした時から「キリン」になったように

ねこが人に愛される事を生き延びる術とした時から「ねこ」になったように

人間は作る事を生きる術とした時から「人間」になったのだと思う。

だから「作る」は人間の本能なのだと思う。

だからぼくの中に「つくりたい」という声がある

それに従っているだけなのだとおもう。

 

世の中に良いもの、役に立つものを作りたい。

そう思うのも、ある意味作るための言い訳で人に「作る」事を許してもらうためであって

基本的にはただ「つくりたい」のだ。

何かを思いついてしまった時なんて、もう「つくりたくてたまらない」感じになり

本能がとまらなくなる。

人間としては最も原始的な活動。それが「作る」なのだとおもう。

 

「なぜ食べるのか?」と聞かれれば「動物だから」

だろうし

「なぜ生きたいのか?」ときかれれば「生き物だから」

だろうし

「なぜつくるのか?」ときかれれば「人間だから」

ということなのだと

ぼくは思う。

 

それ以上の説明がいらない最小単位の感情、本能

これに逆らうのはなかなかむづかしい。

だから「作る」

逆らわずに「作る」

 

これが理解できると、歴史の捉え方がとても不思議に見えてくる

ありとあらゆる不思議な世界遺産

これらができた理由を考古学者たちが一生懸命考える

なぜピラミッドを「作った」のか

なぜナスカに地上絵を「作った」のか

その理由として祈りとか宗教的な理由とか政治的な理由とかを示そうとする

でも、本当にそうなのだろうか?

表面的な理由はあるかもしれない。人を動かさなくては大きな建造物は作れない。

ようするに、たくさんの人を動かすためのプレゼンテーションをしなくてはいけないので

理由を作る。

だけど、本当のところはただ誰かの「作りたい」という本能から始まっているのではないだろうか?

ナスカの地上絵なんて、たくさんの人が必要ではなく二人もいれば書けることが明らかになっているらしい。とするとたくさんの人を動かす必要もないので、プレゼンテーションも必要なく、描き方を思いついてしまったから描きたいから描いた。

「人間だから作った」

空から見ないとわからない絵を描ききるというのは人間の「作りたい」本能に気がついている人からしたら最高に楽しかったのだろうと想像がつく。

けど、「作りたい」の本能に気がついていない「なぜ作るんですか?」という質問をするような人たちはきっとこの地上絵を描く快感を想像することもできないから、なぜ描いたのか?空を飛んでいたのか?宇宙人と交信していたのか?宗教的ななにかか?などということになる

 

作りたかったから作った。だって人間だもの

 

それで説明がついてしまうのだけど

それでは皆さんへのプレゼンテーションは不十分なのだろう。。。

 

今日もヒビアトリエに来ていただいてありがとうございます!

     

「作りたい」は止まりませんねー

 

 

 

 

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