だからぼくは「NO!」をひっこめた

 

「常識」とか「正解」とかっていうので簡単に片付けてしまうのが好きじゃないぼくは

だいたいのことにいきなり「NO!」ということがない。

ところが、変なところでぼくの「NO!」が現れた

先日、父母と行ったファミリーレストランで「取り皿ください」と言って出て来たのが

丸い窪みのあるコーヒーカップのソーサーだった。

ただそれだけのことなんだけど、なぜかすっごい嫌だった

なんだこのモヤモヤは????

たぶんパスタを取り分けるのも躊躇したままなんとも言えない表情をしていたのだろう

母が「嫌なんでしょ」

そして父が「全然平気だけど」

という。

「変えてください」というほどのことでもない。

いや、人によっては「変えてください」というだろう。

なんとも言えない感じ

ぼくはこの感情の中になんとなく「不衛生」を感じていたと思う

でも、きっと同じ食洗機で洗われて、他の皿と同様の状態のはずなのである。

なので、不衛生でもない。

ダメな部分が見つからない。しいていうなら「これはソーサーだから」でしかない

だからぼくは自分の「NO!」を引っ込めた。

 

こういう意味のわからない説明がつかない「NO!」が発生するたびにいつも考えてしまうのが

子供を叱るときのこと。

いつからかぼくは、大人が子供にいう「ダメでしょ!」とか「やめなさい!」に過剰に反応する。それは、まだぼくは独身なので自分の子供はいないけど、もし自分に子供ができたらどうやって接していくかを考えるようになっていたからなんだ。

街の中では母親の「ダメでしょ!」とか「やめなさい!」とかがとびかう。

でも、あまりにも理不尽だったり、子供に頭ごなしに言っているように感じていて、自分はこういう親にならないようにしようと思っていた。

だから「なぜダメなのか?」をちゃんと説明できるようにならなくちゃいけないと思うようになった。

 

例えば、椅子の上にのぼる子供に「椅子にのぼっちゃダメでしょ!」ってなるけど

なぜダメなのかがぼくはわからない。

聞くと「椅子は座るものだから」という答えが返ってくる。でも全然納得いかない。

西洋なら、床と座面の境界ははっきりしている。床はまだ靴で歩くので半分外

靴で椅子の上にのぼるのはさすがに汚れるのでダメなきがする。

でも日本の場合靴は脱いでいるので、床はもう外ではないその証拠に床に座る。

椅子も座るけど床にも座る。

玄関開けて靴を脱いだ後の床はすでに綺麗にしておくべき領域の日本スタイル。だから、椅子の上に乗っても汚れない。

「床は歩くものだから座るな」とは言わない。

となってくると、やっぱりどうもよくわからないし説明ができない。

説明ができないからダメじゃないのかもしれない。

ぼくは、ダメである説明ができないものを子供にいうのはやめようと思っている。

 

今回のソーサーについてもどうしてもダメである理由が全然思いつかなかった。

だからぼくは「NO!」をひっこめた。

 

今日もヒビアトリエに来ていただいてありがとうございます!

     

「NO!」の理由を探す人体実験を自分を使ってよくやります。

 

 

 

 

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